海の見えるぶどう畑で 弘津ヴィンヤード
抜けるような青空と、天へ昇るぶどうの葉。海から吹くひんやりした風に、汗がすうっと引いていく。
余市の秋の始まり。収穫の時がやってきたのだ。
近年、世界からも注目されるワイナリーが点在する余市町の登(のぼり)地区。その北東部に位置する丘陵地帯の一角に、弘津敏(ひろつさとし)さん雄一さん親子のヴィンヤード(ワインぶどう畑)があります。
余市の人と風土の物語、余市ストーリー。今回は、ワインメーカーへ原料を供給するワインぶどう専門の栽培農家のお話です。
広大なぶどう畑から
弘津ヴィンヤードは、広さ8.3ヘクタール。ドーム球場の面積をはるかに超える広大な畑で、グランポレールワインの原料となるケルナー、バッカス、ツヴァイゲルトレーベ、ピノ・ノワールの4種のぶどうを栽培しています。
収穫直線のケルナー 猛暑を乗り越え順調に育っている
初夏の頃は赤ちゃんだったぶどう達が大きく育った9月の末。
この日は赤ワインの原料となるツヴァイゲルトレーベやピノ・ノワールが収穫期を迎えていました。
十分な糖度となったピノ・ノワール
収穫作業は親戚の手を借りて6~7人で。「ほぼ毎日、20日間くらいで終わるかな。収穫がお祭りみたいで楽しいと言う人も多いけど、出荷日が決まっているから雨風関係なく作業しならきゃならなくて。『収穫かぁ』って思ってやってる。」と笑う弘津雄一さん。
収穫したぶどうは貨物列車2両に入れられ、2昼夜かけて岡山県赤磐市の醸造所に運び込み、醸造されるそうです。
出荷用コンテナの前に立つ弘津雄一さん
りんごからワインぶどうへ
弘津ヴィンヤードの始まりは、雄一さんから5代前の明治時代。今から100年以上前に山口県から入植し、代々りんご農家を営んでいました。
転機は1990年。畑の一角に、ワイン用ぶどうを植え始めたことが始まりだそうです。
きっかけは、「りんごが安くなったこと。それと、古いりんごの木がよくなる『腐らん病(ふらんびょう)』という病気。この病気は菌が地中に残っていると、同じりんごを植えるとまた枯れてしまう。それで、ワインぶどうを作らないかと声をかけられて、りんごの木をぶどうの木に植え替えたのが始まり。」雄一さんは話し始めました。
最初にぶどうを植えたエリア(林の左手前の斜面)今は土を休ませている
りんごの町で、ワイン用ぶどうを植える。当時は周囲からおかしいんじゃないかと言われたこともあったとのこと。
けれど、ぶどうが実り生産量が安定するまでりんごの栽培と並行しながら、徐々に栽培面積を広げていったそうです。
失敗も色々あったという雄一さん。「ぶどうにはやせた土地がいいって聞いて、山なりだった当時の畑を造成して、りんご畑の土を天地返し(畑の表層の土と下層の土をすっかり入れ替えること)して今の畑の形を作った。だけど、天地返しすると肥料っ気が全然ないから、植えたぶどうの木が伸びるのに時間がかかって。何せあの大胆な親父がえいやっとやったから。」と笑う雄一さん。
「だから、ぶどう栽培がしたいって聞きに来る新人農家さんには、『天地返ししても表土はある程度残した方がいい』って伝えてる。」
弘津敏さん(左)と雄一さん(右)
雄一さんはこの畑で仕事をして27年。「こんなもんかな。モチベーションとかは特になくて。」一度は余市の外に出てみようかと思い、高校卒業時に自衛隊の入隊試験を受けたこともあったそうです。けれど、「他に行くなら継がせない。」と敏さんに言われ、余市で生きることを決めたそう。
「ワインを飲んだお客さんに、『美味しかった』と言われるのは嬉しい。」その表情は気負わず淡々としていました。
探求
これからやってみたいことはと尋ねると、「温暖化もあるから、品種は少しずつでも替えた方がいいかなと思ってる。
今後は、今育てている4種以外の品種を作ってみたい。メルローとかシラーとか、醸造した時にブドウそのものの個性が出る品種がいいね。」
お酒は普段ほとんど飲まないという雄一さん。「りんご農家があまりりんごを食べないのと一緒だよ。」と笑う。
「栽培方法も色々試してみたいね。今は2m間隔でぶどうを植えてるけど、1.5m間隔にして品質が変わるか試してみたい。1本の木に対する実りを少なくすると、熟成感に変化が出るだろうから。」探求心をたたえた静かな横顔がそこにありました。
畑の北側から余市湾とシリパ岬を望む
「余市はワインの産地としては珍しく、海が見える。潮風はワインブドウには良くないとされるけど、町に果樹栽培の歴史があって、ワインブドウも品質良く育てられるようになった。
海も山も見える。そういうところで作っているのを想像しながら、飲んでほしい。」
海の見えるビンヤードでの収穫を終える頃、余市の秋は深まっていきます。
撮影・文 田口りえ